『泣き虫弱虫諸葛孔明』(酒見賢一)

泣き虫弱虫諸葛孔明

を引き続き読み始めた。昨年末に読み始めたのだが、帰省にあいまって一旦置いていたものを再度読み始めた。一旦置いたものを読み始めるのは、最初に読み始めるときよりも、エネルギーが必要になる。
酒見賢一の小説は好きでよく読んでいるのだが*1、この小説はエッセイっぽい口調で、諸葛孔明の人間味あふれる一面を書いている。
諸葛孔明というえば鬼謀奇策の天才としてスマートに語られることが多いが、この作中の諸葛孔明はひどくだらしない*2
しかし、またそれも面白い。
文章で残っている諸葛孔明は、きっとずっとスマートに書かれているのだろう。それは、「文」を操る機会がめったになく、後世に残る事が強く想定されたため、人々が良い格好をしたがったからではないか?と思ったり。

ぼくは、たまに生きる事に閉塞管を感じるれど、それは「立派であらねばらなない」という先代・先達からの無言のプレッシャーに息詰まりを感じているからなのかもしれない。立派、と言われ続けている人も人で、こういう一面があると分かるとほっとするというか。

ただ、これは生きる事を舐めたり手を抜いたりすることとは違う。光のさすほうへ一生懸命歩いてるんだからさ、それを偶像と比べる事は辞めなよ、という自分自身への自戒。

ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹)の最終章の手紙で出てくるアヒルのヒトのように、まじめに生きているけれどひょっとこけてしまう、そのこける姿に、ちょっとあこがれる。

*1:読みきっていないのは『陋巷に在り』シリーズだけかな?先日文庫で完結したから、一気読みしようとたくらんでいる

*2:そして突っ込みどころ満載だ。時々、作者の突っ込みが入るのだが、これも面白い。諸葛孔明の難解な漢詩を「わけわからん」と断じるくだりとか