『泣き虫弱虫諸葛孔明』(酒見賢一)

読了。物語は、孔明がようやく出櫨したところで終わってしまう。「ここから赤壁とか馬謖とかあるのに!」と思わないでもないが、後半一気読みだったためだろうか、満腹感がある。たぶん、この物語は続く。続いているのだろう。
なんだか、いつまでも酒見氏の語り口調で話を聞いていたい、子守唄を聞いていたいような欲求がちらほら。本書の主題は孔明なんだけど、ぼくにとってそれはたぶん二の次で話を聞いていたい*1
さてさて。中盤まではそんな軽口が面白かったんだけど、そこから後半の山場、三顧の礼あたりから劉玄徳の置かれている「曹操と戦えば負けると分かっているのに、戦わなければ社会的に抹殺されてしまう」というどうしようもない立場の鬱々とした玄徳の心情が語られる。これがつらい。いま仕事で追い詰められている自分自身が微妙に重なって、他人事ではない感じがしたりしなかったり。
そのシンクロの複線となったのが、三顧の礼の前講釈である、酒見賢一氏の小説観。
小説を書くことで、量子化でぶれている物語が(酒見氏の中で)固定されて失われることがあること。ぼくは、吉原幸子氏の「これから」の一文、「書いてしまえば書けないことが書かないうちなら 書かれようとしているのだ」を思い出した*2
酒見氏は言う、物語が固定される恐怖と、小説家としての衝動がそれと対立する、と。これは面白い。あるていど自由のあるクリエィティブな仕事には、この苦悩が付きまとうのだな。産みの苦しみは、それを選択する代わりに、生まれなかった何百もの可能性を捨てる事になる。それに向き合うということなんだな。

*1:某漫画か

*2:恩田陸氏もこの一文をどこかで引用していたような